ジャズミュージシャンとして原爆に向き合うこと

ピースコンサートに、ピアノのなかにし隆さんと参加しました。
主催の前田斗亜さん、スタッフのみなさま、参加ミュージシャンのみなさま、
お客様、本当にありがとうございました。素晴らしいイベントでした。
ミレイヒロキさんの『花の傘』は、あいにくの雨模様まで美しくさせる力がありました。
護岸ステージから川に向かって歌っていたら、
あの日この川で死んでしまった方々に対して歌っているような
不思議な気分になりました。







写真は山下愛さんよりいただきました。



わたしは父が黒い雨を浴びている被爆者であり
母方の祖父母が爆心地から1.4キロ地点で被爆している被爆二世です。
そして幼少期にアメリカで過ごし、
今はアメリカの文化の象徴ともいえる "ジャズ" のミュージシャンになりました。
原爆を落としたのはもちろんアメリカ。
おじいちゃんやおばあちゃんはアメリカの悪口を言うことはなかったけど
アメリカに住んでいたときに遊びに来たおじいちゃんは
ずっと不機嫌で、風景を見ながらボソッと
「そりゃあ、負けるわいの…」とつぶやいたそうです。
9.11のテロが起きたときにおばあちゃんは
「ちっとはそういう目に遭やあええ」と言いました。
直接闘った記憶のある祖父母はアメリカに対してそういう気持ちがまだある。
でもわたしにはない。

だから、今回演奏の機会をいただいたことで何を歌うべきかずっと考えました。

日本人にとって、ジャズとはどういうものだったのか知りたくなり
ジャズと戦争について調べていたら特攻隊員の句がありました。

「アメリカと 戦うやつが ジャズを聴き」
「ジャズ恋し 早く平和が くればよい」

この句を読んで、特攻隊員の人たちが
わたしたちと変わらない普通の若者だったんだと
身近に感じると同時に、悲しくなりました。
この人たちはその後ジャズが聴けなかったんだなと。


そして敬愛する詩人・茨木のり子さんの最も有名な詩
「わたしが一番きれいだったとき」の一節を思い出しました。


わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった


自由の象徴だったジャズ。
日本人に受け入れられたジャズ。
スタンダードの勉強をしていると、その曲がヒットした背景に
戦争中のアメリカ人の心境があったりします。
敵同士かもしれないけど、文化を愛する一般市民は変わらない。
戦争なんか早く終わらせて平和が来るのが一番いいんだ。
そこには違いは無い。



今日歌った曲。

Somewhere (映画「West Side Story」より。バーンスタイン)
朗読「わたしが一番きれいだったとき/When I was most beautiful」(茨木のり子)
Our Love Is Here To Stay(ガーシュイン)
広島の川(中山千夏)
Travessia/Bridges(ミルトン・ナシメント)
花は咲く(ミレイヒロキ作品とのコラボ)